絵画を知人友人と一緒に鑑賞する機会がたまにあります。
その際に、同行者と目の前の絵画について語り合うことをとても楽しみにしています。
数名で同じ絵を数分間眺めたうえで、その絵から感じたこと、その絵の中に発見したことを語り合うと、いろいろな驚きが毎回あります。
驚きの1つは、解釈の多様性です。
全く同じ絵を同じくらいの時間眺めているはずなのに、驚くほど多様な解釈がその場で語られるのです。
私には、幸せそうにしか見えなかった少年の表情が、ある人は寂しそうだと言うのです。
私には黒っぽい色の川にしかみえなかった部分を、ある人は崖だと言うのです。
自分は人の構図や表情、動作を中心に見ていた中で、絵に描かれている光の微妙な具合について発見を語り、そこから得た深い解釈を語る人。
自分には小さすぎてスキップしていた小さな虫の存在に、いちはやく気づき、むしろその虫の存在が絵画全体の解釈の中心的な存在だと語る人。
「◯◯に決まっているじゃないか!」「だいたい、これはこんなもんでしょう」と、仕事や暮らしの中で抱く「決めつけ」が誰にでも多少はあるのだと思いますが、「◯◯に決まっている」という自分の「決めつけ」が壊れていく快感、驚きが絵画鑑賞にはあります。
絵画を仲間とみている際に、もう1つ驚きがあります。
他の人がいて、解釈を語り合うことで、自分の解釈が揺らいだり、深まったり、新たな発見が続出することです。
抽象画のように、最初は、いまいち何の絵なのか取り付く島もないようなときも、仲間達と
自由に解釈を語り合うことで少しずつ刺激を受け、自分なりの解釈が湧き上がってくることがあります。
あるいは最初の解釈が、揺らぎ、仲間の語った内容に大いに共感を知はじめ、解釈が大きく変わることもあります。
1つの絵画を自分一人で鑑賞することも勿論、味わい深い時間ですが、私は仲間達と共に、多様な解釈や発見を語り合いながら、鑑賞することがとても好きです。
仲間たちと一緒に行う絵画鑑賞は、絵画の魅力を楽しく味わうことを目的で始めたことなのですが、実際に絵画鑑賞の体験を積み重ねてきて思うことは、「絵画鑑賞は、絵画だけでなく自分というものを観る機会でもある」ということです。
1年ほど前のある時、仲間達と共に3枚の絵画を1つずつ鑑賞して語り合うということをやった日がありました。
全く違う絵のはずなのに、私は同じような解釈を異なる絵に対して語ったことがありました。
周りの人々は、絵画それぞれに、異なる解釈を語っていたのですが、私だけが異なる絵に同じような解釈を語った瞬間がありました。
「私は目の前の絵をほとんど見ていない」と感じた瞬間でした。
何を見ても、自分が同じ解釈を語るということは、絵をみて語っているのではなく、自分の内面にある何かを、何度もひっぱり出してきて語っていると感じたのです。
目の前の絵画の解釈を語ることで、自分自身のある種の思い込みやモノの見方が、痛々しいまでに自己認識できた瞬間でした。
その瞬間は、自分が絵画を見ておらず、かなり思い込みで語っていることに激しく落ち込みましたが、実はこれはこれで自己認識が深まる貴重な体験なのではないかと数日経ってから思うようになりました。
絵画を仲間とみて解釈を語り合うことで、多様な視点や解釈に触れながら、仲間と自分の解釈の違いに直面する。そして、自分の元の解釈を見つめなおしていくプロセス。そして、そのプロセスで体験する揺らぎや発見、驚き、感動、快感が、そこにあります。
また、絵画を何枚も仲間と共に見ていく中で、繰り返し出てくる自分の着眼点や解釈の傾向を自己認識し、自分の奥底にある思い込みや視点に気が付くという自己認識の機会。
私にとって、仲間と絵画を見て語り合う事で、自己認識や多様性受容の貴重な機会になりそうです。
みなさんは、多様性に触れて受け容れる機会、そして自分のモノの見方や着眼点、解釈の癖に気付く自己認識の機会、最近、持てていますか?